本日も連れあいの話。動物の話があるので、苦手な方はご注意を。
夕方、仕事から帰った連れあいの手に、朝はなかった小さな傷がいくつかできていた。どうしたのか尋ねると、噛まれたと答える。またお客様の要望で逃げたペットの捕獲にでもかり出されたのだろう。今度は何にやられたのか。犬か、猫か。
「……きに噛まれた」
はい?
「たぬきに、噛まれた」
……はい?
話はさかのぼる。事務員である連れあいが書類仕事に精を出していると、外出していた他課の課長がつかつかと寄ってきた。
課長は言う。車で事務所に帰ってくる途中で、たぬきが道路沿いを歩いているのを目撃した。あのままでは車にひかれて可哀想だから連れてきて。
野生動物にとっては車にひかれるかもしれないという仮定の危険より、人間に捕まるという実際の危険のほうがよほどストレスではないか。そもそもそれはこ の会社の仕事ではないではないか。そんな仕事を直属の上司ではない人間の命令で受けてもいいものか。そして何故それを連れあいがやらねばならないのか。い ろいろな不満の果てにきょとんとして言葉もない。課長はさらにまくしたてる。
早く行って。こうしている間に轢かれたらどうするの。道具?そんなの適当でいいから。檻がない?あんた作業着だから、捕まえたら抱っこして連れてくればいいでしょ。はいはい早く早く。
野生動物を膝にのせて車を運転しろとは。この課長は「野生動物なんてシネマフィルムにしか存在しない」設定の近未来の住人か何かか。野生動物をなめるな。
あれよあれよというまにたった一人で出かけさせられた連れあい。
その小さき手にあるのは、ただ一組の軍手。そしていくらなんでも抱っこは無理と持ってきた檻がわりのダンボール。それだけ。
網もネットもない。徒手空拳の野生動物保護。
無理だろう。普通無理だろう。
後に連れあいは語る。
「俺はいい仕事をしたと思うよ」
然り。彼はいい仕事をした。頼れるものは軍手をはめた己の手のみでありながら、見事たぬきをつかまえたのである。
さすがに軍手と作業着では自分の身を完全には守れなかった。
彼の手には、たぬきの必死の抵抗の痕が。噛み傷と引っかき傷。
職場に戻った彼の報告を聞き、直属の上司は血相をかえた。今すぐ医者に診てもらうように。
野生動物との接触は感染症が恐い。まして傷をつけられたのならなおさらだ。直属の課長は野生動物の危険をご存知だ。よかった。家族としても安心だ。
医者に行くと、既に上司から連絡が入っていた様子。受付で「あ、たぬきに噛まれた方ですね」と確認される。集まる待合室の視線。
すぐに通された診察室で、お医者様は傷をひととおり見て告白する。
「正直なところ、たぬきに噛まれたのはどう処置してよいものかわからなくて。消毒して抗生物質を処方しますので、何かあったらまた来てください」
そうだろう。たぬきに噛まれた患者の処置に慣れている医者などめったにいないはずだ。地元の医者がそんなことに精通していたら、わたしは引越しを真剣に検討する。
治療費2000円。自腹なり。
以上が帰宅した連れあいから聞いた顛末だ。本当にたぬきに噛まれたとは。冗談だと思った。
連れあいの傷は経過を観察するとして、気になるのは捕まえたたぬきの行く末である。怪我がなく、人に危害を加えたわけでもない野生動物は行政でも保護していないはずだ。どうするのかと問う。
「うん。明日、どこかの山に放す」
……連れあいの仕事と負傷に意味はあったのか、はなはだ疑問の残る結末だった。
最後に余談。
帰宅した連れあいが傷の原因について説明したとき。
「……たぬきに噛まれた」
……はい?
アニキに噛まれた?
誰のことかと一瞬で色々思い巡らした。どうかしていた。
でもたぬきに噛まれたというのもどうかと思うのだ。
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