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どこかのWebサイトに表示されていた「グラディエーター」の文字広告。その語感から格好いいロボットとか銃器とか重機かとわくわくしながらクリックしたら、
魚の背骨か哺乳類の肋骨みたいな靴の画像がでてきてがっかりした。落胆のあまり検索したら剣闘士とか戦闘機の愛称もでてきたので結果的に満足。そういえば最初に出てきた靴の形もちょっと古代ローマみたいだ。そのつもりで見たら何かほしくなってきた。
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外においてあるゴミ箱のかげに、赤茶色の大きな鳥らしきものを見つけた。こちらには気づいていない様子で羽をぱたぱたさせている。飛び立とうとはしない。
見たことのない鳥だ。これは珍しい。慌ててカメラを持ってくる。翼を羽ばたかせてはいるが、まだそこにいる。風とカメラの起動音で逃げないように祈りつつ、電源をいれ、ファインダーを覗いて、ぱしゃりと一枚。
後ほど写真の出来を確認したら、どう見ても鳥ではなく、赤紫蘇だった。そういえばあのあたりに植えてあった。
二十年来の夢だった「シール付きチョコレート箱買い」を成し遂げた。しかも二箱。計60個。感無量である。
ただ、どんなシールが入っているか確認するためには開封しなくてはいけないわけだ。開封したら食べねばならぬわけだ。……好きだけど、美味いけど、一度に60個は無理……!
姪から義母あてに手紙が届いた。
わたしは一回しか会ったことがないからこんなものだろうが、連れあいのポジションはどうかと思うのだ、姪よ。あなたのお父さんの弟よ?割と近めの血縁者なのよ?
「おばあちゃん(義母)、ポチ(飼い犬)、タマ(飼い猫)、お兄ちゃん(連れあい)、お姉ちゃん(アマモリ)、お元気ですか。私は元気です。毎日暑いですね。」
猫の話題、およびグロテスクな表現があります。ご注意ください。
我が家の猫はハンターだ。田舎の山を縦横無尽に駆け回り、ネズミやモグラや鳥を獲ってきては縄張りに持ってくる。
猫の縄張りはわたしの縄張り。端的に言うと家の中である。小動物の躯(むくろ)が自分の縄張りにあることを不快に感じるヒトとしては、これは排除する必要がある。必然、それらの片付けは猫の飼い主にしてハウスキーパーたるわたしの仕事だ。
さて、自室に戻ると猫が行儀よく座っていた。大変かわいらしいが、その横に毛皮のお手玉みたいなものが寄り添うように落ちている。
ああ。あれだ。いつもの狩猟の成果だ。また片付けねばならぬ。気が重いことだ。しかし今日は「中身」が見えていないし、いつもほど目をそむけなくてもよ さそうだ。猫も関心を失った後で見向きもしないからすんなり渡してくれそうだし。確かに今日の獲物は今までとはちょっと違う。ネズミよりもふわふわで丸く て縞模様で。ずいぶん毛並みがいいが、まさか他人様の家のペットに手を出したのではあるまいな。それにしては獲物に抵抗のあとがない。しかし野生動物にし てはちょっときれいすぎる。
正体を見極めようと顔を近づけると、そのふわふわのしましまが、ひょっと動いた。生きている!?
にゃあん、と猫が鳴く。しましまふわふわはそれにあわせてするりと浮き上がり。
猫の尻尾だった。無論ちゃんと猫の胴体につながっていた。
ところで。
最近「下ネタ」とか「汚い話」とか「グロテスクな表現」とか注意書きの必要な日記が多くて、本来目ざしている「上品で格調高い日々の記録」から遠ざかっ ている気がしてならない。「遠ざかる」というのは多少なりとも近いところにいたものがだんだんと離れていく意味だから、もともと「上品」「格調の高さ」と は対極にあったものに対する表現としては適切を欠くかもしれぬ。
嘆かわしいことだ。さらに過去の日記を読み返したら、「気品に満ちた日記」を目ざしつつ、もうどうしようもなく下世話でくだらないのが芸風になりつつあるようで本当に憂慮している。文が人をあらわしすぎだ。もっと虚飾にまみれたい。) 真っ赤です。
トマトには何をかけて召し上がるだろうか。塩。ドレッシング。オリーブオイル。紫蘇。バジル。はちみつも人を選びそうだが案外いけた。しょうゆはどうかと思ったが、これも好きな人は好きそうだ。何もかけないとおっしゃる向きも当然あるだろう。
今日の夕食にもトマトを切っただけのものを添える。さて、義母は何をかけるのか。砂糖がお気に入りのようだが、たまにマヨネーズを選ばれるときもある。十中八九、砂糖だとは思うが、こちらで勝手に判断するよりご希望を伺うほうがいいだろう。
「お義母さーん」こちらを振り返る義母。
「砂糖に何かけますー?」
間違えたー!
本日の日記には汚い話が含まれています。
今年はここら一帯が空梅雨だが、おかげでいつでも布団が干せる。家事にはなかなか便利でありがたいことだ。
干した布団は太陽のにおい。これは実のところ皮脂やダニの死骸のにおいだと聞いて一時げんなりしたが、布団が快適な状態になったのだから、そのにおいを心地よいと感じるのは多分正しい。干された布団は自分に誇りをもってほしい。
そろそろ布団を取り込む時間。物干し竿の布団を持ち上げる。ぬくぬくとしてふわふわとして、正直夏の体には熱すぎる。それでもやはり気持ちいい。偉大なるかな太陽。熱くとも暑くともなおも愛しき我が寝具。落ちないように抱きかかえ、目の前にきた布団の真ん中に。
鳥の、糞が、ついていた。
自らの影に向かって歩けば背中に日光が注ぐ。じりじりと背がやける焼ける。夏の光には質量がある。
うつむいた視線の先、アスファルトを鳥のかげが横切る。
思わず仰ぎ見る。しかし何もない。そらは空ろ。うつろな空。
時に希望の、時に望郷の、時に決意の象徴として見上げられる青空は、しかし実のところ何もない。天球は反した器でそこに何かを入れておけるはずも無い。飛ぶはずの鳥も地上の影ばかり。
ばりばりばりとヘリコプターが飛んでいる音がする。大きな音なのでかなり低空にいるのだろう。さらに近づいてくる音。ばりばりばりばり。どこにいるのか 窓から顔を出して空を見る。はぐれ雲がのんきに浮かんでいる以外何も見えない。しかし音はどんどん迫ってくる。このまどから窓からは視認できない位置にい るのだろうか。音はますます激しくなる。ばりばりばりばりばり。
首が痛くなるほど見上げても見つけられないので、あきらめて目を地上に戻す。その目の前を、ちょうどとおり過ぎる、耕運機。
ばりばりばりばりばりばり。
ヘリコプターなんて、飛んでいなかった。
そう。空には何もない。そらはからでうつろ。うつろな空が背中をあぶる。
また地面を鳥の影が走った。見上げても何もいない。
しかしふと振り返ると、太陽を横切って鳥が飛んでいた。先ほどまで見ていた地面をかえりみる。あの鳥の影がうつっている。
もちろん空は空っぽだ。だから鳥が飛べるのだ。空ろであるからといってそれを空しさと短絡すべきではないのだろう。
天から地から熱が昇り今日も暑い。空に何もない限り熱はここに届く。空が空ろであることで助かるものがあるのだからこれは仕方がない。今日も夏に耐える。
そろそろエコバッグを何かの景品にするのはやめてもいい。
あちこちでもらうので、使い勝手やデザインが気に入らない複数のエコバッグがゴミになりそうだ。
もういい加減ほしい人にはいきわたっただろう。
明るいテレビ画面を通り過ぎる黒。黒。漆黒。喪服の人の列。誰かの告別式であろう。沈鬱な表情。沈痛な言葉。死者を悼むナレーションが映像にかぶる。
しかし、その画面の右上には「人の多い場所で運命の出会い」。
訃報かと思ったら、誰かが誰かに出会ったニュースなのか。結婚報道か熱愛報道か。しかしその出会いの場が告別式とはいささか不謹慎ではないか。事実だとしても真昼間からテレビで堂々と流すようなことだろうか。
憤慨しつつ観ていたら、問題の文字が変わった。「おとめ座」。さらに続けて「積極的なアピールが幸運の鍵」。画面は依然として黒の葬列を映している。
しばらく観続けてやっと、この番組はどんな話題の時も常に画面の右上に占いを表示しているのだと理解した。ただ、占いがここまで重要な扱いを受けている理由はどうにも理解し難かったが。